2008.07.16 Wednesday
sabiが教育活動 (らしきもの) を見る視点って、なんだったっけ?
最近、自分たちの都合で教育活動 (らしきもの) をしてる人たちが多すぎて、
それら一つひとつについて、どのように判断し、見きわめたらよいのか、
sabiにはだんだんわからなくなってきた。
少なくとも、キャッチフレーズとか、断片的な言説だけでは判断できない。
先入観とか、思い込みとか、好き嫌いで判断してもいけない (当たり前だけど) 。
2〜3日前、あるきっかけから、
このことについて、原点に立ち返って考えてみようと思いはじめた。
かつて (広島時代) 、sabiがさまざまな研究会などで、
教育現場の先生方に突きつけられた問いの数々を、あらためて思い起こしてみた。
その中で、とりわけ重要な視点 (指針) としてsabiの中に刻み込まれた問いは、
次の3つだったように思われる。
1. どんな力をつけようとしているのか?
2. どんな関係をつくろうとしているのか?
3. 何と闘おうとしているのか?
----------
以下、少しだけ補足。
※ ここでは便宜上、「教師−子ども」 という書き方をするが、
「指導者−被指導者」、「教育する者−される者」、「計画者−参加者」 など、
ほかの言葉に置き換えてもよい。
1. どんな力をつけようとしているのか?
言い換えれば、「その教育活動を通して、子どもの中に何が残るのか?」ということ。
ただ楽しかったとか、素晴らしかったとか、癒されたとかで終わるのではなく。
できなかったことができるようになる、
あるいは、できそうだという手がかりをつかむことが期待できるか?
自らの固有の発達課題に挑むチャンスが、一人ひとりに与えられているか?
たとえば、自立する力、人とつながる力など、集団の中でしか得られないものが、
どのような形で、子どもの中に育っていくのか?
2. どんな関係をつくろうとしているのか?
ここでいう 「関係」 とは、子どもをとりまく諸関係のすべてを含む。
「教師−子ども」、「子ども−子ども」、「子ども−対象」、「子ども−社会」 など。
みんな仲よくとか、助け合おうねとか、口で言うことはたやすいけれど、
現実として、子どもの活動基盤、生活基盤そのものの構造がいびつになっていると、
そこでつくられる諸関係も、ゆがんだものとなってしまう。
どのようにして、それらの基盤を足もとから組みかえていくのか?
そして、そのことを通して、どんな関係を構築したいのか?
教師が無意識のうちに、固定的な力関係を教え込んでいる危険性はないか?
3. 何と闘おうとしているのか?
教育を志す人たちは、みんな、いろいろな野望 (?) を持っていることだろう。
「世の中にはびこる、誤った教育観を正したい!」 とか、
「国の教育政策、文科省の教育方針に、もの申す!」 とか、
「時代に流されてはいけない。寺子屋の思想に帰ろう!」 とか。
教師というよりはむしろ、われわれ研究者の側にこそ求められる視点なのだが、
こうした人たちは、何と闘い、子どもたちをどこへいざなおうとしているのか?
また、それはなぜなのか?
そして、その人たちの教育活動は、実際その目的に見合った形で行われているか?
ちぐはぐなものになってはいないか?
この3つの視点は、sabiの中では、
教育 (あるいはそれに類するもの) を考えるときの基本として、
十数年前からずーっと存在していたように思う。
いま、あらためて考えてみて、
1.2.3.のどれかが怪しいと、教育というものは、
とたんに胡散臭くなってしまうものだなぁと、つくづく実感。
自分が描いてきた教育像のどこかに、ちょっとでもかみ合わない要素が生じたとき、
ある人は、誠実にそれと向き合おうとするだろう。
また、ある人は、そこから目をそらそうとするだろう。
そして、ある人は、それを意図的に糊塗しようとするだろう。
巷にあふれる、なんだかよくわからない教育活動 (らしきもの) の一つひとつを、
見きわめるのは難しい。
しかし、“教育の多様化” が声高に叫ばれている現在、
それを見きわめようとする努力は、なおさら必要なことなのだろう。
それら一つひとつについて、どのように判断し、見きわめたらよいのか、
sabiにはだんだんわからなくなってきた。
少なくとも、キャッチフレーズとか、断片的な言説だけでは判断できない。
先入観とか、思い込みとか、好き嫌いで判断してもいけない (当たり前だけど) 。
2〜3日前、あるきっかけから、
このことについて、原点に立ち返って考えてみようと思いはじめた。
かつて (広島時代) 、sabiがさまざまな研究会などで、
教育現場の先生方に突きつけられた問いの数々を、あらためて思い起こしてみた。
その中で、とりわけ重要な視点 (指針) としてsabiの中に刻み込まれた問いは、
次の3つだったように思われる。
1. どんな力をつけようとしているのか?
2. どんな関係をつくろうとしているのか?
3. 何と闘おうとしているのか?
----------
以下、少しだけ補足。
※ ここでは便宜上、「教師−子ども」 という書き方をするが、
「指導者−被指導者」、「教育する者−される者」、「計画者−参加者」 など、
ほかの言葉に置き換えてもよい。
1. どんな力をつけようとしているのか?
言い換えれば、「その教育活動を通して、子どもの中に何が残るのか?」ということ。
ただ楽しかったとか、素晴らしかったとか、癒されたとかで終わるのではなく。
できなかったことができるようになる、
あるいは、できそうだという手がかりをつかむことが期待できるか?
自らの固有の発達課題に挑むチャンスが、一人ひとりに与えられているか?
たとえば、自立する力、人とつながる力など、集団の中でしか得られないものが、
どのような形で、子どもの中に育っていくのか?
2. どんな関係をつくろうとしているのか?
ここでいう 「関係」 とは、子どもをとりまく諸関係のすべてを含む。
「教師−子ども」、「子ども−子ども」、「子ども−対象」、「子ども−社会」 など。
みんな仲よくとか、助け合おうねとか、口で言うことはたやすいけれど、
現実として、子どもの活動基盤、生活基盤そのものの構造がいびつになっていると、
そこでつくられる諸関係も、ゆがんだものとなってしまう。
どのようにして、それらの基盤を足もとから組みかえていくのか?
そして、そのことを通して、どんな関係を構築したいのか?
教師が無意識のうちに、固定的な力関係を教え込んでいる危険性はないか?
3. 何と闘おうとしているのか?
教育を志す人たちは、みんな、いろいろな野望 (?) を持っていることだろう。
「世の中にはびこる、誤った教育観を正したい!」 とか、
「国の教育政策、文科省の教育方針に、もの申す!」 とか、
「時代に流されてはいけない。寺子屋の思想に帰ろう!」 とか。
教師というよりはむしろ、われわれ研究者の側にこそ求められる視点なのだが、
こうした人たちは、何と闘い、子どもたちをどこへいざなおうとしているのか?
また、それはなぜなのか?
そして、その人たちの教育活動は、実際その目的に見合った形で行われているか?
ちぐはぐなものになってはいないか?
この3つの視点は、sabiの中では、
教育 (あるいはそれに類するもの) を考えるときの基本として、
十数年前からずーっと存在していたように思う。
いま、あらためて考えてみて、
1.2.3.のどれかが怪しいと、教育というものは、
とたんに胡散臭くなってしまうものだなぁと、つくづく実感。
自分が描いてきた教育像のどこかに、ちょっとでもかみ合わない要素が生じたとき、
ある人は、誠実にそれと向き合おうとするだろう。
また、ある人は、そこから目をそらそうとするだろう。
そして、ある人は、それを意図的に糊塗しようとするだろう。
巷にあふれる、なんだかよくわからない教育活動 (らしきもの) の一つひとつを、
見きわめるのは難しい。
しかし、“教育の多様化” が声高に叫ばれている現在、
それを見きわめようとする努力は、なおさら必要なことなのだろう。
JUGEMテーマ:学問・学校