行ってきました!!
TOKYOへ(^○^)
全国のゴダイゴファンが待ちに待った、
「2007 TOKYO 新創世紀」。
これは、ものすごい音楽革命だった‥‥ としか、言いようがない。
まさに、東京芸術劇場という場所にふさわしい、“芸術”作品が、
その空間の中に存在していた。
そして、時間の流れに乗って、いまは、かなたへと去ってしまった。
sabiは、寝台列車に乗って、けさわが家に帰ってきた。
京都駅の構内も、住み慣れた町も、いつもと同じ土曜日の朝の顔をしていて、
なんだか不思議な感じだった。
最初は、レポートをアップするつもりが、全くないわけではなかった。
でも、やめた。(きっぱり)
マジック・ペインティングの、絵の中の人(!)を見たあたりから、
レポートを書くのは、早々にあきらめた。
sabiがコンサートのレポをアップするのは、
基本的には、行けなかった人にほんの少しだけでも、
“行った気分”を味わってほしいなぁ、という思いからであって、
自分のつたない文章に、読み手の方々の想像力をミックスしていただくことで、
もしそれが実現したらうれしいなぁ、といったところなのである。
あるいは、同じ場にいた人に、sabiの視点(聴点??)からはこんなふうだったよと、
また違ったライブ感を伝えられたら、というのもある。
しかし、少なくとも前者については、今回はとてもできそうにない。
言語という手段だけで、
しかも、話しことばでなく、こんな機械的な(←というか、機械の)文字のみで、
あれを伝えることは、sabiの能力ではどだい無理。
一流の音楽評論家さんなら、できるかな? うーん、どうだろう。
ゴダイゴへの愛!というスパイスがあったら、できるかもしれないけど。
(‥‥というわけで、かおさんお願いします!!(^^; )
だから、ここにいまからsabiが書くのは、あくまで“雑感”である。
ほとんど支離滅裂に、sabiが感じたこと。
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まず、「新創世紀」に関しては、
これは30年前のものの“再現”では決してない、ということ。
サウンドも、コンセプトも、すべてが螺旋状に進化している!
そして、矛盾してるようだけど、
やっぱりあくまで、ほかならぬあの「新創世紀」でなければならなかった、ということ。
30年前という時代は、ゴダイゴにとっては早すぎた。
やっと時代がゴダイゴに追いついてきたわけだけど、
彼らはそこで止まってはいなくて、また、さらに先を行こうとしているんだなぁと。
進化といえば、
聴き手のわれわれの側も、あれからずいぶんと進化している。
たぶん、あの頃のsabiが、今回のこのコンサートを聴いたとしても、
さっぱりわけがわからなかっただろう‥‥。
いろんな音楽を聴いてきて、そして、ゴダイゴの曲を何度も何度も聴いてきて、
すっかり耳が肥えている聴衆のみんな。
それなのに、ゴダイゴ・サウンドは、いつも新鮮な驚きをわれわれに与えてくれる。
すごい!の一言である。
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東洋と西洋の融合(‥‥調和? 止揚?)という発想も、
ミッキーは時代を先駆けて、われわれに突きつけてくれていたけれど、
世の中がそのメッセージを受けとめるには、ずいぶんと時間がかかってしまった。
sabiはうたごえの活動の中で、和太鼓演奏にはかなりの回数接しているのだが、
ヒダノ修一さん! 本当に素晴らしかった。
そして、「竹田の子守歌」という選曲からも、
ミッキーのめざすところが垣間見られるような気がした。
(書いたら長くなるので省略。)
ついでに。
“女王って、なんであんな和風の装いなんだろう?”という違和感が、
コンサートの間じゅうずーっとあったのだが、
それも、そういう意図だったのかな? と、あとになって思ったりした‥‥。
あ、そういえば、
「IN YOU 勧進帳」がセットリストにあるらしい、という情報を、
前にどこかで見たような気がするのだが、
残念ながら、ガセネタ(←という表現は失礼か)だったのね(^^;
‥‥このガセネタの大元って、もしかしてゴダイゴのメンバーか??
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「マジック・ペインティング」が始まったとき、
“えーっ! A面・B面、とり混ぜてやっちゃうの!?”と思ったけれど、
実はかの曲は、「新創世紀」という物語全体を包む、ひとつのモチーフだった。
(もちろん、「憩いのひと時」とともに、A面からとったには違いないのだが。)
おどろおどろしい色で塗りたてられた、一枚のキャンバス。
その向こう側に広がる、時空を超えた壮大な絵巻物の世界を、
われわれは駆け足で覗かせてもらったのだ、と言ってもいいかもしれない。
あるいは、このコンサートそのものが、
ゴダイゴと出演者の人たちによって描かれた、一枚の絵だったのかもしれない。
オープニングの「マジック・ペインティング」って、
確か、めっちゃキーを下げてあったように思う。
そしてエンディングのそれは、オリジナル・キーだったと思う。
それが、モチーフとしては絶妙な効果を生み出していた。
かなり怖かったし‥‥。
sabiがこの曲を初めて聴いたのは、中学生の頃。
とある日曜日の深夜だった。
(なぜ、日曜日だと特定できるかというと、ラジオ番組で聴いたからである。
デイヴ平尾さんが司会をしてた、「ゴダイゴの世界」。なつかしい〜。)
初めて聴いた「マジック・ペインティング」。
これは怖かった。家族がみな寝静まっている真夜中だもの。
そのときのわけのわからない怖さが、
今回のこのステージで、めちゃめちゃリアルに再現されていた。
あの絵の中の人、すごかった。
静と動。
止まってるときは、ホントに絵みたいだったし、
動いてるときは、足を踏みはずさないかとハラハラするくらいだった。
足の裏に目があるんじゃないか? 絵の中の人。
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みんなで創りあげた作品、という印象がとっても強かった。
クワイアの人たちの圧力もすごかったし。
もちろん、われわれ聴衆も、それに参加しているわけであって。
音楽や演劇の舞台は、ナマモノだから、
そこにいるすべての人が(←いない人も含めて)、その創り手であると言っていい。
そして、同じものは二度とできない。
これだけのものを創るのだから、
見えないところで支えている人たちの数も、ものすごいだろうと容易に想像できる。
トミーが、「お弁当やコーヒーの人も」と、言っていた。
sabiたちがやってるコンサートでも、もちろんそういう担当者を用意する。
そして、その人もれっきとした、創り手の一員。
(人手がないので、うたい手が兼ねることもあったりするけど;;;)
釈迦の歌最高!!
“みんなで”というのが、いちばん伝わってくる演目だったような気がする。
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2階席だったことは、少なくともsabiにとっては大正解。
1階席のノリや熱気も、うらやましいなぁと思ったが、
今回の場合、ある程度は冷静に味わってみたかった。
たぶんsabiは、1階席などにいると完全に冷静さを欠いてしまうだろうから。
(今回のsabiのノリは、1階席だとやや地味、2階席だとややノリすぎ?)
sabiの位置からだと、ほとんどすべてに近いものが、しっかり見渡せた。
ステージの全貌、両翼席のクワイア、パイプオルガン。
裏のほうに潜んでいるトミー。
そして、客席の反応まで!
かおさんとの会話で、sabiが、2階席だったことに関して、
「エレピがまる見えだった。」
というわけのわからない発言をして、
かおさんは、「???」になってしまったのだが‥‥(^^;
sabiはときどき、自分の中の前提をすっ飛ばして、唐突なことを言ってしまうので、
気をつけなければならない。
sabiは、ピアノやキーボードを弾いてる人の手元を見るのが、
めちゃめちゃ大好きなのである。
(だから、ミッキーのあのギターみたいなキーボード?も、うれしかった〜。)
「エレピがまる見え」というのは、
タケやミッキーや竹越さんがかわるがわる弾きにやってくる、その鍵盤さばきを、
上からもろに見ることができて、もうたまらなかった〜!!! ‥‥ということ。
ミッキーの神の手には、ホント、失神寸前(>_<)
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コンサートに出かけると、
“客席に対して、どういう反応を求められているのか?”ということを、
sabiはすごく意識する。
それがよいことか悪いことかは別にして。
今回は、それが難しかった。
“ここで笑っていいのか!?”とか(←笑ってよかったらしいが‥‥)、
“この感動の思いを、拍手で伝えていいのか!?”とか。
しかも、sabi自身が、
よく聴きたい! よく観たい! という思いが強ければ強いほど、
しーんとして固まってしまうタイプ。
昨年の、タケ&京フィルのときもそうだったのだが、
楽団に対して、演奏中に拍手をすることに、どうしても抵抗を感じてしまう。
(太鼓やドラムとかのソロ演奏は別だけど。あと、浅野さんもか?)
それは、マナーとかどうとかの話ではなくて、
ただたんに、自分が間奏部分もしっかり聴きたいし、しっかり観たいから‥‥。
ほかの音は要らない! っていうモードに、ガーッと入ってしまうのである。
だからsabiは、
音の完全にとぎれた(orとぎれる前兆を感じた)ところでは、盛大に拍手したけれど、
あとは、ほとんどしなかった。
ひとつの芸術を観る・聴くという姿勢に、入り込んでいたから。
両目・両耳も、身体じゅうの毛穴までもが(?)、すっかりひらききっていて、
いまここで起こっていることの何もかもを、
聞きのがすまい、見のがすまいとしているみたいだった。
自分の呼吸する音や、存在している気配までもを、消したいような気分だった。
そういう聴き方って、いいのか? 悪いのか? どうなのか?
まあ、どう聴こうと、本人の自由なんだけど(^^;
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タケの脚本は、素敵だったけど、ツッコミどころも満載だった。
“あの女王が、こんなに俗っぽいキャラでいいの!?”とか。
“あんな宇宙的スケールの物語を、家族関係の問題に矮小化していいの!?”とか。
“あの伝説の新創世紀なのに、こんなにオヤジギャグを連発していいの!?”とか。
気勢をあげる → 「アチョー!」 → 奇声をあげる‥‥ なんて、
まるで、だいすが考えるようなダジャレじゃないか(-_-;
しかも、スベってた???(^^;
sabiは、あの文筆家タケ様の脚本なのだから、
これは、めっちゃシリアスな本格派ファンタジーになるにちがいないっ!!
という方向で、過剰に期待していたのだが;;;
でも、女王の言っていた、
「親も子どもも、家族が幸せな関係にあった頃の思い出を忘れることはない。」
という(ような感じの)セリフ。
その通りだなぁ、と思った。
帰りの寝台列車の中で、sabiは、
sabiの家族みんなが幸せだった時代のことに、あれこれと思いを馳せていた。